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私は町中に生まれたので、動物を飼う環境にはなく、
犬は怖いという観念が抜けなかった。
郊外に住むようになって、巡り会わせで現在、
3匹目の犬を飼っている。
25年くらい前になるが最初に飼ったのがコリー犬だった。
大阪から飛行機に乗ってきたとのことだった。
飼い主の都合で飼えなくなり、我が家にやってきた。
私には最初、恐怖心があったが、飼ってみると利口で可愛かった。
いつの間にか、恐怖心は消えていた。
それ以来、朝夕の散歩も続き、私の体調管理にも役立っている。
2匹目は、めいに「誰かに飼ってもらえなかったら、
保健所に連れて行かれる」と泣きつかれた犬だった。
コリーが死んだ時、可哀そうで、妻と「もう飼うまい」と
言っていたが、断りきれずにまた飼うことになってしまった。
今はもう16歳を越える老犬になってはいるが、
毎朝、夜が明けると、散歩に行こうとせがんでくる。
3匹目は捨て犬だった。
家の裏の辺りをウロウロしていたが、誰かに通報されたのか、
保健所の捕獲対象になった。
一度は逃げたらしく、妻が可哀そうになって
餌を与えていたらしい。
保健所が2度目の捕獲に来たとき、我が家に逃げ込み、
今度は妻に泣きつかれた。
保健所の人も捕獲せずに済んで、喜んでいた。
今しばらく、付き合うことになる。
犬との縁がなかなか切れそうにない。
毎日新聞「男の気持ち」より
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中央アジアの旧ソ連タジキスタン。
首都ドゥシャンベの空港で荷物検査の男性係官に呼び止められた。
正直、難儀だなぁと思いつつ応対すると、彼は話し始めた。
「あの日、テレビで津波を見た。すごい光景だった。日本の人々は大丈夫か」。
想定外の言葉に驚いたが、「日本を気遣ってくれてありがとう」と自然に口から出た。
取材で高位のイスラム宗教指導者に会った時もそうだった。
彼は東日本大震災へのお見舞いの言葉を切り出し、
「日本は人も技術も素晴らしい。私たちは尊敬している」と言ってくれた。
こちらは胸が熱くなり、「必ず日本の人々に伝えます」と答えた。
ある女性の校長先生は、日本からの教育視察団の報告書を、
読めないけれど宝物のように保管していた。
「大災害にも冷静に対処した日本人に学ばなければ」、と言った。
タジクはソ連崩壊後の1990年代、内戦で苦しんだ国だ。
98年には国連監視団の秋野豊さんが殉職した。
今も日本など先進国の支援を頼りつつ、民主化に励んでいる。
ユーラシアの奥の小さな綿花の国が、温かい視線で日本を見つめている。
副島英樹 ( 朝日新聞 特派員メモ)より
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座骨神経痛が悪化したので、出勤前に近くの整形外科医を訪ねた。
座る姿勢から寝方まで、医者は生活上の心得を教えてくれ、
「総合病院へ行ってきちんと検査したほうがいい」。
最後に湿布を出してきて、「そんなわけで、お金はいただきません」。
申し訳ないと言っても聞き入れてくれない。
湿布はよく効いた。
その日の夜は、旧正月明けの新年会だった。
台北市内の小さなレストランで始めて30分後、財布をなくしたことに気づいた。
呼びかけ人の私に支払い能力がないのは、まずい。
タクシーを降りた辺りまで出て探していると、「財布を落とした人か」
と、声をかける老人がいた。
息子と2人でごみの収集の仕事をしていて、財布を見つけたので
息子が派出所へ届けに行ったという。
派出所で無事受け取り、警察官が掛けてくれた電話で、その息子さんに
「謝礼を渡したい」と言ったが、「そんなものは要らない。
今後は財布を落とさないよう気をつけることだ」と諭された。
二つの出来事が偶然だったとは思われない。
以来、この社会にどうお返しすればいいのかを考えている。
( 村上太輝夫 )
『朝日新聞 特派員メモ 台北』
2月17日 朝刊より。
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人生は学校で、そこにおいては、幸福より不幸の方が良い教師だと
言った人がいます。
多分、誰もが、この言葉に納得する経験をしているのではないでしょうか。
つまり、現状よりも良くなる状態を発展と呼ぶのだとすれば、少なくとも
人生においては、順風満帆の生活からよりも、山あり、谷ありの人生、
失敗もあれば挫折も味わう、苦労の多い人生から立ち上がる時に、
発展の可能性があるということなのです。
いつしか女子大生と関わるようになって、五十年経とうとしています。
その間、学生、卒業生の自死という悲しい経験も何度かしました。
そんな時、その人たちの苦しみを思い、冥福を祈りながら学生達に話したものです。
「死にたいと思うほどに苦しい時、
”苦しいから、もうちょっと生きてみよう”とつぶやいてくださいね」
苦しみの峠にいる時、そこからは必ず下り坂になるのです。
そして、その頂点を通りこす時に味わった痛みが、その人を強くするのです。
2011年3月11日の東日本大震災は、たしかに千年に一度と言われる大震災でした。
これによって、日本の未来への発展の青写真は大きく変わりました。
個人の生活においても、家、家族を失い職場は消失、または崩壊し、
職を失った人たちにとって、「発展」という言葉は遠のいたかに見えます。
しかし、にも関わらず、この災害によって、未来への発展への道が閉ざされたと
考えてはならないのです。
後ろ向きでなく、前向きに考える時、この災害があったがゆえに、
新しい知恵が必要とされ、人々の考え方にも革新がせまられています。
長い目で見たとき、この災害もきっと、未来への発展につながってゆくことを信じています。
渡辺和子 「心のともしび」より抜粋
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「いくつになってもスタートラインに立てるのよ。
私もそうだし、あなたもそうだよ」。
これは(1980年)姉が直木賞をもらって、
お祝いで飲みに行った帰りの車の中で、ふっとわたしにいった言葉です。
それともう一つ。
「最初の実力は60かもしれない。
努力して70,80と積み重ねて100になったとき、
そこから120までは飛べるかもしれないのよ」って。
姉は20代のころ映画雑誌の仕事をしていて、映画評論家にならないかと
さそわれたことがあったそうです。
でも、そうはせず、未知の世界にとびこんでここまでやってきたと言う、
自分に対するご褒美のような気持ちから出た言葉だったのかな。
その後の人生は、その時の彼女にもわからないことだけれど。
向田邦子がなぜ今も人気があるのかと言うと、
とても普通の人だったからだと思うんです。
普通の人が普通の日常を描く、そのことが共感を得るのだと。
大作家の娘さんではなく、サラリーマンの家に生まれ、
自分のやりたいことを探しながら生きてきた。
普通に生きると言うのは、毎日の生活に喜びや発見があるということ。
それをすごく素直にかいている。
私は中学生の頃、父のことが嫌いで、
姉に「この家に生まれてきて、どう思う?」って聞いたことがありました。
姉は「こんな家にうまれて幸せだと思う」って即答した。
「私達は生まれてくることを両親に望まれた子なんだよ。
それだけで幸せなスタートラインにいるでしょう」
「これからあなたの目線でお父さんを感じ取りなさい」って。
これが姉の全てを表現していると思うんです。
姉は「普通」に生まれたことをとても幸せだと感じながら生きていた。
人間、良いことも悪いこともある、だからいいんだと。
その時、姉の人間に対する見方を感じました。
普通に生きる幸せ共感
(没後30年に寄せて 妹 向田和子さん)
毎日新聞より抜粋
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「近くまで行くから会えるかな」。
先日,他県に住む友人から電話があった。
13年ぶり。待ち合わせ場所まで行くと、天使のような笑顔で手を振っていた。
病気のご家族の看病で、ずっと忙しかった彼女。
少し痩せてはいたけれど、相変わらず綺麗で、おしゃれで明るくて、
キラキラ輝いていた。
長年、一人で看病を頑張ってきたけれど、人の手を借りること、
人に任せてみることも考えてまた仕事を始めたとのこと。
疲れで体調を崩しても一度も愚痴を言うこともなく、
起きたことすべてを幸せに変えていくような心の持ちようで毎日を
楽しみ、いとおしみ、ベッドサイドで勉強を続け、充実した日々を
重ねたようだ。
「また新たにスタートだ」と和やかに話して帰っていったうしろ姿が
残像のように心に残っている。
彼女はいつも人に喜んでもらうことばかり考えて、自分のことは後回し。
でも、決して流されることなく、自分をしっかり持ち続けている。
「身体がいくつもあれば、もっといろいろなことができるのに」と、
どこまでも強くたくましいのだけれど、「涙もろくなった」と
笑うところだけ昔と違っていて、ちよっと心配になった。
会いにきてくれたことがただただ嬉しかった。
初めて出会った10代のころ、あまりの心の美しさに
驚いたけれど、ますます磨きがかかっていて、まぶしいほどだった。
毎日新聞 「女の気持ち」より
大分以前の投稿でしたが、やはりここにも掲載させていただきました。
admin
★ 小さな命のために (ドイツの動物福祉)
ドイツ・ハンブルクの保健所(動物ホーム)では、
たくさんのボランテイアの人たちが
動物の世話や散歩の手伝いをしています。
160年ほど前に作られたこの組織には現在80名の職員、
4名の獣医師が、24時間体制で働いています。
そしてこのスタッフとは別に、ボランテイアスタッフとして
市民が登録され、飼い主を待ち続ける動物達のために
「動物にとって出来るだけ良い環境づくり」に
励んでいるのです。
一番多いのは犬の散歩をするボランテイアです。
毎月決められたスケジュールに基づき、
一匹ずつ園外の散歩に出かけます。
どの犬でもよいというのではなく、
事前にお見合いをしてパートナーを決めます。
ボランテイアさんはその犬と、散歩だけでなく
園内の施設で遊んだり、シャンプーをしてあげたり、
本当の飼い主のように仲良く触れ合うのです。
ボランテイアさんには厳しい規則があり、
定期的に通えることが原則。
動物たちが本当の飼い主のように愛情を注がれる環境を
つくっています。
動物を飼いたくても飼えないという事情は
大都市では当たり前になりつつありますが、
このボランテイア活動は市民にとって自分の自由時間を
生かして社会貢献にも参加できるという。
とても人気のあるプログラムでもあります。
スタッフの助手として掃除をしたり、食事を作ったり、
物を運んだりと、さまざまな年齢層の人たちが
定期的に参加しています。
施設内には犬が泳げる池や、人間との生活に近い形で
くつろげるようにと、犬専用のリビングルームも
作られています。
人間と一緒に生活をしてきた犬や猫たちが、
できるだけ寂しい思いをしないように
「人間との関わりを作る」努力が見られます。
作曲家 松尾由佳さんの新聞記事より
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人間が弱い動物たちを慈しむことが出来れば、自然と優しい心が育ち、
「美しい世界」ができると・・・・・そう思います。
admin
「アキが来てる。気配がする」
亡くなるひと月前、兄は何度も言っていたらしい。
アキは去年の12月26日、「ニヤー」と鳴いて23年の生涯を閉じた。
老衰でほとんど動けなくなっても、兄のベッドから下に置かれたトイレに
転げ落ちて用を足したという。
最後まで自力で水を飲み、餌を食べ、排泄し、見事に生ききった。
野良猫だったアキが兄の家に来たのが秋。
それでアキと名づけられた。
兄の食べるマグロをもらうのが大好きだったアキ。
アキをこよなく可愛がっていた兄は「アキのように最後まで自力で生ききりたい」と言い、
アキの後を追うようにして7月1日に息を引き取った。
心臓の大手術をして10年がたっていた。
アキは雌のキジ猫で、人なつこく賢い猫だった。
十数年前、心臓を患っていた兄が退院した日、痛み止めの副作用で幻覚に
襲われ、家に入れないでいた時、アキがそっと兄にすり寄り家の中に
導いたという。
どんどん体力が落ちている兄を見ていたアキが、きっと迎えにきたのだろう。
望み通りに生ききった兄は、おだやかな美しい顔で眠っていた。
極楽というものがあるかどうか分からないけれど、私には虹の橋を渡る兄の
足元にアキが寄り添って歩いている姿が浮かぶ。
アキは優しい目で兄を見上げ、兄はほほ笑み、ふたりで極楽への橋を渡って
いるにちがいない。
毎日新聞 「女の気持ち」より
admin
「運命を引き受けよう」
人生は何が起こるかわからない!
そんな時、この言葉を思って明日へ向かう!
毎日新聞の「経済観測」のコーナーで以下のような
素晴らしいことが書かれていましたので、抜粋掲載いたします。
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今回の大地震は未曾有の被害をもたらした。
被災者の悲しみはどれほどかと心が痛む。
先日、長崎で原爆資料館を見、昨年は沖縄のひめゆりの塔を訪れ
日本の歴史の中の悲惨さを心に刻んだ。
しかし長崎も広島も沖縄も、そして戦争で壊滅的なダメージをうけた日本も、
多くの日本人の努力と連携のもと見事に復興していった。
そのような例を引かなくとも人の人生にはさまざまな幸、不幸が訪れる。
私は6歳で父をなくし、母は27歳から父の変わりに朝から晩まで働き
4人の男の子を大学まで出した。
母は、笑顔を絶やさず私たちにさまざまなことを語りかけた。
その中で幼い私達の心に最も響いた言葉が、「運命を引き受けよう」であった。
自分の人生で起こったことは悲しみも苦しみも全て引き受け、
その中で最大限の努力をし、人生を切り開いていきなさいということだ。
私の3人の子の長男は自閉症という傷害をもって生まれ、
また肝硬変とうつ病を患った妻は40回もの入退院を繰り返し、
3度の自殺未遂をした。
私はそれもひとつの運命だからそのまま受け入れ、
努力しようという母の言葉を支えに生きてきた。
幸い妻は回復、我が家はいま平穏無事な生活を迎えている。
この一週間、さまざまな友人が、震災支援で必死に頑張る様子をしらせてきた。
現場の東京電力社員らは死ぬ気でたちむかっているだろう。
そうした報道やメールを見るたび、被災者を思い涙を流さずにはおれない、
と同時に日本人の強さを改めて思い知らされた。
被災された方々に熱い連帯の気持ちを込めて伝えたい。
「どうか力を合わせ自分の運命に立ち向かってください」と。
そして日本人みんなに「全員でこの難関をのりきりましょうと」と。
東レ経営研究所特別顧問 佐々木 常夫氏
(3月19日、毎日新聞 ”運命に立ち向かおう”より)
admin
今、私はこの9月で66歳になりました。
小学校3年生の時に見た映画「ピノキオ」を良く思い出します。
すっかりストーリィ―は忘れてしまいましたが、
きれいな色使いや音楽は耳に残っています。
今でも大きな鯨の口に飲み込まれていくピノキオをはっきりと覚えています。
具体的にどんな影響を受けたのかはわかりませんが、
何かしら思い出に残る映画です。
当日は、雨降りで片道4Kmくらいの道を雨に濡れながら
一人で映画館まで歩いて行きました。
バスもありましたがお金は映画館の入場料しかありませんでした。
大きな信濃川にかかる木造の橋を渡り、今思い出しても
良く一人で行ったものだと感心します。
母親も良くお金を出してくれたなと思います。
貧しい家庭でしたので、30円か50円の入場料だったと思いますが、
私一人分しかありませんでした。
長い帰り道の道中、私の頭の中は映画のきれいな色が
ぐるぐる回っていました。
娯楽もなく、子供の読む本も少なかった時代に「ピノキオ」は
暗い過去の思い出の中でぴかっと光っています。
ピノ より